墨攻
監督:張之亮(ジェイコブ・チャン)
出演:劉徳華(アンディー・ラウ)范冰冰 安聖基 王志文
2007中国・香港・韓国・日本
藤井省三東京大学教授の講ずる中国の文学と映画についての社会人講座(カルチャーセンター)の受講生たちを中心とする中国映画愛好グループでは、毎年2月、前年2月から次の1月までに日本上映された作品を対象として金蟹賞という賞を決めています。とはいっても、グループ内で楽しむだけで、受賞作品の製作者に賞金を差し上げたり、授賞式にお招きするわけではないのですが・・・でも、藤井教授はじめ錚々たる中国映画の権威?の集まりなので、それなりに信頼のおける作品鑑賞にはなっていると思っています。
さて、今年度の圧倒的支持を得た金蟹賞受賞作品は『墨功』でした。この作品は酒見健一の小説を森秀樹が漫画化したものを原作としており、映画化に際しても日本、香港、中国、韓国と東アジアの合作になりました。
以下、小林が「トーキング・ヘッド」30号(アトリエ・サード社)に書いた映画紹介から一部抜粋して紹介します。
*************************
四カ国の合作映画である。原作は日本人、スタッフにも日本人が参加し、演技陣は大陸、香港それに韓国から。ことばは普通話で、主人公革離を演じる劉徳華(アンディ・ラウ)を含めほとんどの出演者の台詞は吹き替えられているようだ。日本公開版では趙の武将巷淹中を演ずる韓国の安聖基がなぜか訛のある中国語を自分の声でしゃべっているが、これは「異国」の敵役という設定ゆえか。で、最初は吹き替えが耳についたのだが、意外にもだんだん気にならなくなり、どんどん映画の世界に引き込まれる。
墨家の孤独な戦略家革離が攻め込む趙から梁城を守り撃退するが、戦いによって多くの人命が無辜に失われることに悩み、民衆を味方につけたことで梁王の不信を買って謀反の罪を着せられ、やがて再び攻めてくる趙軍と対決する。その間には騎馬隊をひきいる女性とのほのかな交流もあるが、最後はかなり悲劇的。激しい城攻め、防城をさまざまな技術を駆使して見せ、娯楽映画としての水準を保ちながら、この卓抜した戦略能力の持ち主革離を、戦に悩む男としてあたかも修行僧のような面もちに描くところに、戦そのものを肯定しないジェイコブ・チャンらしい社会的な視点が現れている。最後に子供たちをつれて城を出ていく革離の姿が胸に沁みる・・アンディ・ラウの、こういう感じで心に苦悩を秘めながらストイックなポーカーフェイスというのも『インファナル・アフェア』以来のはまり役。というわけで、ああ、これはまさに香港映画のウェットだと思う。
砂漠のような黄土平原、切り立つ岩山、そこにそびえる城郭、繰り広げられる戦いというのは中国を舞台にした時代劇-武侠映画の典型のひとつだし、近年は、それらに大陸だけでなく香港、韓国、日本の俳優・スタッフなども参加しての合作というのも流行りだ。日本公開作で言えば『ヘブン・アンド・アース(天地英雄)』(中国03/監督=何平)『MUSA(武士)』(韓国01/監督=キム・ソンス)があるし、『プロミス』(中国04/監督=陳凱歌)『ヒーロー』(中国・香港02/監督=張藝謀)などもこの系列の作品と言えるかもしれない。で、思うに、前二者はあきらかに異文化接触が重要な要素を占めるストーリーで、日本人や韓国人の役者が中国にとっての「異文化」人を演じるところに意味を持つ作品。後二者は舞台を中国(らしき所)にしてオリエンタリズムをかもしだしはするものの、むしろ無国籍性を意図した作品といってよく、そこに登場する人々も生身というより記号化された象徴的人物の印象が強い。どちらにしても戦いは殺して勝つべきものとしてあり、反省や悩みも希薄で、流れるのは乾いた空気。ストーリー展開は巧みで見て楽しめるが、終わってしまうと余韻などとは無縁の作品という感じだ。
そこで、この『墨攻』。中国の役者演じる父王に、韓国人の王子、香港から来た家臣や兵士たち。入り乱れる各地の役者たちが『プロミス』のような無国籍社会ではなく、しっかり中国古代のひとつの物語を演じる。それはある意味で真の合作といえるし、吹き替えはそれを成立させるための必然的な要素であったのかもしれない。そして全体をジェイコブ・チャンらしい社会派ヒューマニズムが覆ってこの作品をいかにも香港らしいウェットな武侠映画にしあげているのだと思える。完成度の高い作品だ。
ただし、ひとつ疑問が残る。梁城の騎馬隊長として最初は颯爽と登場する主要人物のうち唯一の女性逸悦(范冰冰)。役者としての彼女は騎馬のみならず、高い崖から水中に飛び込んだり(本人がやっているのかどうかは知らないが)、首まで水に漬かっての演技(寒い中10時間近くも水中にいたらしい)とか、大奮闘だが、役柄としては苦労のわりに報われないというか、男を助けたいと思いながら、男に助けられ、男の助けを待ち、結局助からないというなんだか割りの合わない人生を送る女性で、心情表現も控えめ。革離の孤独をさらに際立たせるための設定かとも思うが、それにしても・・・・
ジェイコブ・チャンはかなり間口の広い人で、さまざまなジャンルの映画を作っているが、男女の関係を描く純粋な恋愛映画というようなものより、ストーリーでも役者でも男性中心の映画、女性中心の映画とはっきり分けて作る傾向があるようだ。『籠民』(92)『流星(流星語)』(99)などは男性中心映画だが、これらでは女性の主要人物はほとんど出てこないか、出てきてもあまり共感を誘うようには描かれない。一方で女性の人生を描いた名作『黄昏のかなたに(飛越黄昏)』(89)はもとより、『女ともだち(自梳)』(97)『夜間飛行』(01)のように複数の女性の共感や友情を描いて見ごたえのある映画もあるが、これらの映画の中の男性も多くはなぜか彼女たちの苦しみの源になる存在で、魅力的には描かれない。女性たちが男性に立ち向かうというより、苦しめられ苦しみつつ女性どうしの円環の中に共感を求めるというのも、そういえば共通している。まさか彼は男女がともに愛し合い助け合い、ともに生きるような人生を信じていないわけではないのだろうが・・・香港映画には戦う女性もけっこう登場するし、それが「らしさ」でもあって魅力的なのである。せっかく原作にない女性を登場させた「男性」映画『墨攻』でこそ、香港の女性ファイターの伝統を生かした生き生きした女性を見、さらなる香港映画らしさを味わいたかった、というのは贅沢な望みだろうか。(小林美恵子)
******************


最近のコメント